Vol.22 改善への長い道のり
薬を飲んでいても、予期不安は頻繁に起こります。しかも、その何度かに一度は、発作も起こります。
どうにかしないと、この負のスパイラルから抜け出せない。そう思って、本を読んだり、ウェブを検索したりしました。
"朝、太陽の光を浴びた方が良い"
という記事をみたら、翌日の朝からそれを取り入れてみたり、
"チョコレートを食べた方がよいらしい"
という記事があれば、そのチョコを買ってきて食べ始めたり、
"バナナが良いらしい"
と聞けば、バナナを買い。
ふぅ。これですね、疲れてしまうんですね。
きっと、それぞれ根拠があってそういう記事になっているんでしょうから、効く人もいるんだと思いますが、わたしにはどれも合いませんでした。
何故なら、
①効果を実感できなかった
(というか、効果が出るまで続けることができていない)
②やり忘れた時、できない時のダメージが大きい
→曇りの日なんて、それだけでダメな気分になりますし、食べれない時もおんなじです。
③忘れずに続けないといけないと思い込んでしまって、結局いつも病気のことを考えるようになってしまう
そう。治したいから必死なんです。
でも、この病は、あんまり必死にならない方がよい結果がでるんです。これも、わたしの場合ですが。
考える時間を減らすというのは、多分、1番いい治療法です。
だって、病気のことを考える時間=0 になれば、それは完治したってことですから。
そういう意味でも、自分がどういうときに我を忘れて集中するかってのは考えてみてもいいかもしれません。
ちなみにわたしは、
①本屋もしくは図書館で本を探しているとき
②大きな文房具店(東急ハンズとか)で文房具を物色しているとき
③読書している時
④運動しているとき
この時は、症状を忘れがちです。
ただ、運動は少し微妙で。。。
夏の暑いときとかに運動すると、それだけで動悸がすごいですよね。それで、予期不安が増長してダメになることがあります。
草野球をやるんですが、外野を守っていて、発作で倒れそうになったことが良くあります。必死で我慢するんですけどね。だって、9人ピッタリでやっているので、1人倒れると試合ができなくなっちゃうんで。しょーもない理由ですけどね。こういうことにとらわれるのです。
でも、そうじゃない時もあるんで。
こういう時間を過ごした後は、何も起こらなかったことへの満足感と、他の人と同じように活動できた達成感で至福の時を過ごすことができます。
パニック障害の人は、きっと、普通の人より 幸福を感じ易いんじゃないだろうか。だって、普通に過ごせることがチョー幸せなんですからね。
寄り道しましたが、結局のところ、最初に書いたような巷で溢れている治療法をそのままやっても、あんまり効果がないんじゃないか?ってのが私の実感です。
ご自身で考えて納得した上でやっている方は、それで十分効果が出ると思います。
私には自分を十分に納得させることができなかったのです。
私が良くやったのは、ずばり、予行演習です。
例えば、木曜日の会社帰りに地下鉄でダメになったとします。
それで、金曜日会社を休むとします。
普通の病気なら土日にゆっくりすれば、月曜日は元気になります。でも、この病気はそうはいきません。
ただ休んでいても良くならなくて、月曜日、また休むことになる、もしくはひどい状態で会社に行くことになります。個人的な見解なので、他の方は違うかもですが。
なので、土日。
具合悪くなっても良いこの日を使って、実際に電車に乗って行ってみます。普段より調子が落ちてますから、あんまり具合良くないのは織り込み済みです。
とりあえず、行って帰ってくるのが大事。感覚がつかめます。感覚がつかめていれば、月曜日にいきなり、ズドーンと調子が悪くても、
まー昨日もこんなもんだったからねー
と冷静に対処できます。
でも、予行演習は、行ける気がする時だけにした方がいいです。そうでないと、さらにズーンと深みにハマる可能性もありますから。
どこまでいっても、無理は禁物です。
地道に、コツコツ積み重ねが必要。無理するのは、回復してきたかも、と自分で実感できてからで良いと思います。
次は、発作が起きた時の私の対処法を書こうと思います。
Vol.21 わたしの発作と予期不安
初めてカウンセリングを受け始めて、自分の内面について考えることを始めたわたし。
過去数回にわたって小学生から大学生まで振り返ってきました。
ただ、こんな風に冷静に振り返ることが出来たのは、症状が良くなってきたからです。
症状が良くない時にはそんな元気はでません。
最初に過呼吸の発作がでたときには、職場ということもあって、相当パニくりました。
もう、どうにもならない。
ああ、人間、死ぬってこういうことなんだな。
どうにもならないってのは、どうやっても普通の状態に戻らないってことです。
なので、死んでしまうのではないか、って思うのです。
意識ははっきりしていて普通なのに、呼吸も動悸も半端なくはげしくなって収まる気配がない。
周囲からは、
「そんな大げさな。そんなんで死ぬわけないでしょ」
と言われますが、本人にはそんな風には感じられません。おおマジで死んでしまうかもしれないと思うわけです。
何度もそうした大きな発作がありましたが、私を大いに苦しめたのは、いわゆる予期不安というものでした。
これが、タチが悪い。
人の頭ってとても良くできていて、自分が想像する悪いパターンを、それはもう、ありありと具体的に考えることが出来ちゃうんです。なので、まだ何も起きていないのに、これから行動する先をリアルに体が感じてしまって、どんどん悪い方に進んでいきます。
頭で考えても体がそんなに敏感に反応するわけがないと思う方もいらっしゃるでしょう。
そんなことないんです。
ヒトの身体って感情で動いているんです。
考えたことはそのまま身体に現れます。
これから、電車に乗ってどこそこまで行く。そう考えただけで発作が起こるようになるのです。そうして、どんどん行動ができなくなると、マイナスの経験が積み重なっていくことになります。
結果、どこに行くにも、何をするにも発作が起きそうで具合が悪くなるんです。
この負のサイクルはほんとにタチが悪くて。
ほとほと疲れました。
私の場合、ダメなのが
1.交通手段(電車・車・バス・飛行機)の移動中、特にちょっとした時間、降りられなくなる場合
2.時間は夕方から夜にかけて
3.休み明け、例えば土日休んだ後の月曜とか、夏休み明けの初日とか
4.ビルの高いところ、高いフロアに行くまでのエレベーターの中
でした。
あれ?
ほとんど生活できなくね?
そう思われた皆さん。
そうなんです。
普通に生きていくのが偉い大変なんです。
なんで、普通に会社に行って帰ってくるだけで体も心もへとへとです。
プライベートが充実している人って素晴らしいよね!!!
何言ってるんでしょう。プライベートなんてないんです。
家帰ったら休息しかないんです。
そうしなきゃ、明日会社に行けないんだから。
世の中の人が普通に言っているような生活が私にはできない。
もう一生できないんだろう。
そう思って過ごしていました。
Vol.20 過去を振り返る(その5)
1年間の浪人生活をはさんで、何とか大学へ入学しました。
電車で45分。バスで30分。バス停から歩いて15分。通学にも苦労しました。
毎日、腹痛、吐き気、下痢の繰り返し。
バスがどうしようもなく厳しかったです。そのうち、パニックの症状も出てきて通学でほとんどの体力が消費されていました。
入学から長い期間、昼ご飯は食べられませんでした。
食べないなら、食べないでふっきればいいのですが、それでは「普通」でないので、そばやうどんなどを友人と同じように頼みます。
数本食べて後はどうやっても食べれなくて残しました。ごめんなさい。食堂のおば様。
大学にいる時間、ずっと吐き気と呼吸がおかしい状態が続きました。
それでも、吹奏楽のサークルに入り、授業にも何とか出て、「普通」の大学生活を送っていると、私は大丈夫だと思って過ごしていました。
そんなとき。サークルの仲間と近くのファミリーレストランに行きました。
初めてみんなで行った時の話しではなく、何度も行っていたときのある日の出来事でした。
ランチの時間です。
それぞれ、注文をしていきます。
そんなとき、一人の友人が話した一言が、
「オレ、今日は何かお腹減ってないな。
無しでいいわ。」
これ、普通の人には何の感情も沸かない一言ですよね。
でも、私には違いました。
ええっ!
お腹減ってなければ頼まなくてもいいんだ!
「頼まなくていいんだ、頼まなくていいんだ、頼まなくていいんだ・・・・・・」
頭の中でリフレインしたのです。
こういうときに頼まないという選択肢は全く無かったのです。
この言葉を聞いて、私の頭上から光がさしたくらい、私にとっては衝撃でした。
ほんとに。ひっかかりが取れるときというのは、こんなにあっさり来るもんなのです。
私はこの日を境に、人前でご飯を食べることができるようになりました。
20年間。食が細く、嫌な思いしかなかった食事。
食べることができるようになっただけでなく、反動で大量に食べるようになったのです。食べられることが嬉しくて仕方ありませんでした。
ですので、今、ご飯が食べられない皆さん。
心のひっかかりが外れると食べられるようになると思います。
何か、自分のなかにある強い拘りが、そうさせているのだと思います。
私は、たまたま友人の一言でひっかかりがとれましたが、そうでなくてもカウンセリングなどを通して、内省を深めていけばたどり着けるのではないかと思います。
絶対に、改善できるときは来ると思います。
Vol.19 過去を振り返る(その4)
中学時代。ふらつきと吐き気に悩まされた私は、いくつもの病院に診てもらいました。
めまい科にもいって、耳から変な水を入れられ、わざと目を回させるような検査も受けたりしました。
診断の結果は。。。
わからない。自律神経失調症ですかね。思春期にはバランスが崩れますからね。
時間が経てば治るんじゃないでしょうか。
これほど、がっかりしたことはありませんでした。
いくつもの病院へいってもこれですから、当時は同じような症状で苦しんでいた人も多くいたことでしょうか。
もう、薬とか何かで治すのはあきらめました。
我慢するしかないんだ、と。ここから先、自分の症状の原因とか、考えることをやめました。
その後、私は、何とか高校受験を乗り切り(奇跡的だと思いますが)、電車での通学が始まることになりました。
初日。入学式です。
朝から緊張で、吐き気が止まりません。
学校について、いよいよ式が始まる、といったときに吐き気と恐怖でその場から逃げ出したくなりました。いっそのこと、保健室にかけこみたかったのですが、かけこんだところで良くなるとも思えない。
そもそも、この症状がどういうものか、そのときは全くわかっていませんでした。
もう、我慢するしかありません。
手の甲の皮をもう一方の手の爪で強くつまみ、ひたすら我慢。
思いのほか、式が早く終わり、何とか乗り切れました。
我慢しての高校生活。
でも、わたしの心は「普通」であることに強くこだわります。
苦しいことを我慢して、部活もやりました。
文化祭の劇ではアナウンサーを演じました。
修学旅行(広島・岡山)にも行きました。修学旅行では、吐き気がひどくて、ほとんど食事がとれませんでした。でも、一人宿に残るのは「普通」ではないので、歯を食いしばってみんなと一緒に行動しました。
「普通」の呪縛はどんどん強くなっていきました。
自分はこういう症状が出る身体なんだ。
仕方ないんだ。
頑張って、歯を食いしばって、普通の人と同じように生きていくしかないんだ。
私の中学・高校生活に青春はありませんでした。
あったのは一向に調子が良くならないからだと、はちきれそうになるまで溜まったフラストレーションでした。身体の事を忘れて、何かを楽しむことはできませんでした。
そうして、一浪して大学に進学することになります。
受験勉強も大変でした。何せ、始終頭がふらついているので、普通に勉強することがままならないからです。
よく、東大などに合格した人が、一日10時間以上も勉強したとか言っていますが、わたしはそういうことができる身体が欲しかった。
勉強は思うように頑張れなかったけど、なんとか大学に行けてほっとしました。
大学に行くのも、私の中では「普通の人」がすることだったので。
その大学で私の呪縛の一つが解けることになります。
Vol.18 過去を振り返る(その3)
中学に上がって、給食のトラブルからは解放されましたが、他の症状が出てきました。頭がふらふらしてどうしようもないのです。
給食が食べられなかったのは、今でいう嘔吐恐怖症の軽いやつ、この頭ふらふらは起立性調節障害だったんだろうな、と思います。
この頃の私にとっての普通は、
・きちんと毎日学校へ行くこと
・学校では元気に給食もきちんと食べること
・休みの日も外に出かけて元気に遊ぶこと
・頭がふらふらすることで学校を休まないこと
・一日のうちで、少しも気持ち悪くならないこと
・外食も普通にできること
・受験勉強をちゃんとやって、高校に行くこと
こんなところでしょうか。ここから少しでも外れることはあってはならないこと。そういう思いでいました。他人から見てどう思われるか。そこに病的に敏感だったのだと思います。
ふらふらがおさまらない私は、色々と重要なイベントを欠席しました。
中間テスト。何回か休んで成績がつかなくなりました。
何か月も練習してきたブラスバンド。発表する文化祭の日。これも休みました。中3のときでした。
幾度となく、悔しい思いをして、どれだけ泣いたことか、どれだけ自分にがっかりしたことかわかりません。
嫌だったら止めればいいのに。そんなに無理しなくていいのに。
そういう風に考えてもいいってことが私には全くわかりませんでしたし、そんなことを言ってくれる人は私の周りにはいませんでした。
無言のプレッシャー。
頑張れ。頑張れ。
自分が心地いいかどうかではない。
やらなければならない。
我慢して、頑張るんだ。
不平不満は言ってはいけない。
やりたくないなんて言ってはいけない。
黙って我慢して、頑張るんだ。
これが当時私が思っていたこと。
黙って頑張れる子もいるんでしょうが、私には無理でした。
中学から高校、大学まで。
頭のふらつき。吐き気。腹痛と下痢。
外食が食べられない。時々過呼吸。
この症状との闘い。
これが私の青春でした。
Vol.17 過去を振り返る(その2)
給食を文字通り少しも食べることが出来なかったわたし。
どんなことになるのか。どんな風に怒られるのか。
恐れおののいていると、予想通りとういか、その教師は烈火のごとく怒り始めました。
「こんなに残すなんて、どういうことなのか。
残すことは許されないので、絶対に食べなさい。」
ただでさえ食べられないのに。。。そんなことを言われて食べられるわけがありません。10分経っても、15分経っても変わりません。緊張で気分はどんどん悪くなります。
教師は給食当番に先に片づけるよう言いました。
お昼休みも終わりに近づいていきますが、私はまだ机に残っている給食を前に固まっていました。
午後の授業が始まる時間になってしまいます。
その教師はこう言いました。
歩いて、廊下の端にある給食室にたどり着きました。学年には5クラスあったので、他のクラスの子供たちの視線も突き刺さります。
パンやおかずの給食道具を返す場所に、私一人分のトレイを置きました。給食のおばさんもキョトンとしていました。
これが、2年間。
2年間、休まず続きました。
小学校も高学年になると、林間学校など学校外の活動もあります。
そういう時は、学年全員で食事をします。
私は、学年全員がいるまえで、その教師から大声で怒られ、はたかれました。
前の担任が心配して声をかけてくれました。
でも、今の担任の方が学校内での力が上だったのでしょう。
一度、声をかけてくれましたが、それだけで何の助けにもなりませんでした。
給食以外でもその教師からはいびられました。
「給食を食べないのはわがままだからだ。」
事あるごとに、こう断言されました。
あるとき、健康診断で保健室で内科の診察を受けることになりました。
他のクラスの子供も一緒に、たくさんの子供が保健室の中や外で並んで待っていました。そこで、その教師は来校していた内科医に、
「この子はシュガーボーイなんです。我儘な子なんですよ、先生。」
と言いました。これも、多くの子供がいる前で、私に向けて放たれた言葉です。
何を言われているのだろう???
この頃、私はこういった仕打ちに鈍感になってきていました。
給食の時間を除いて、私は元気に過ごしていました。
ただ、間違いなく私の身体は壊れていきました。
食べられないのは、精神的におかしいのではないかということになり、近くの総合病院に行くことになりました。
神経科というところに連れていかれ、箱庭をつくってみたり、何かの試験を受けたりしましたが、給食が食べられるようにはなりませんでした。
この時、給食が食べられなかったのは、ただ気持ち悪くなってしまう、喉まで何かでいっぱいになった感じがしまうからで、特に精神がどうとか、という感覚はありませんでした。
なぜ、そうなってしまうのか。全くわかりませんでした。
今から考えると、これは全く持って精神的なもので、こうでないといけない、という強迫観念のようなものが原因だったのだと思います。
中学にあがってから、それがはっきりしました。
給食初日から、普通に食べられたのです。
ただ、その後も外食で思うように食べられないのは変わらず続きました。
それは、全て私が精神的に弱いからだ。私が弱いからいけないのだ。
ずっとそう思っていました。
Vol.16 過去を振り返る(その1)
カウンセリングで自分の思考の癖に気づいたわたし。
私は、常に
「普通」でないといけない。
そう思って生きていました。
普通に過ごすことが出来ない私はダメな人間だ。
そう思って、賢明に普通に過ごすことができるう人間になろうともがきました。
なぜ、そんなふうに思うようになったか。
それを考えるために、記憶を振り返ることにしました。
物心ついた小学校低学年の頃。
私はとても食の細い子供でした。
家で食事をしていてもすぐにお腹が一杯な感じになってしまいます。
自分が他の人より食べる量が少ないことに気付いたのは、親戚の集まりでした。
同年代の子供たちと一緒に親戚一堂と食事をする。
私には、そういう機会が良くありました。
そういうとき、決まって私は、出された食事を残さずに食べることが出来ず、嫌な思いをしました。従兄弟のみんなは普通の子供より良く食べるほうで、事あるごとに比べられました。その度に、食べられない事はダメな事だ。食べられない自分はダメな自分なんだ。と思っていました。
外食をするとき、大勢の人と一緒に食事をするとき、食べることが難しかったのです。気持ちが悪いほどではないのですが、喉の少し奥まで何かが一杯に詰まっているようで、お腹が一杯で食べれないというのとは少し違った感覚でした。
でも、小学2年生にそんな事はわかりません。
学年があがって4年生になったころ、事件が発生します。
給食を全く食べることが出来ない日が出てきたのです。
特に元気がないというわけではありません。
でも、喉まで一杯で食べれない。
週に数日食べれない時もあれば、毎日食べれないこともありました。
担任の先生も、どうしたんだろう、と一緒に心配してくれました。
もともと色が細かったので、その延長線上の話だろう。私も周囲もそういう風に考えていたんだと思います。
高学年にあがって、様子は一変しました。
担任が変わりました。戦争を体験している年輩の女性教師で、とても怖いと評判の先生でした。
担任になった初日。彼女はこう言いました。
「給食を残す事は絶対に許さない。
食べ物を粗末にするのは言語道断だ。」
数日経って給食が始まりました。
私は、予想どおり、給食を少しも食べることが出来ませんでした。
ここから、壮絶ないじめが始まりました。
いじめたのは、クラスメイトではなく、その先生でした。